AI概要
【事案の概要】 被告人は、かつての覚せい剤使用により30代頃から覚せい剤精神病に罹患し、自分の頭の中に年配の男性がいるとの妄想や、同男性から自殺や殺人を命ぜられる幻聴を生じ、入退院を繰り返していた。平成20年10月8日午前零時頃から自宅で「人を殺せ」と命ぜられる妄想・幻聴を何度も体験し、同日午前7時30分頃、隣室に家事手伝いに来ていた被害者(当時73歳)を殺害しようと決意した。被告人はビニール手袋を着用し、ビニール袋で両足を覆い、毛染め用ガウンを着てペティナイフを持って隣室に赴き、被害者の左前胸部と前頸部を突き刺し、頸部と左手首を複数回切り付け、前頸部と左前胸部の刺突に基づく右上甲状腺動脈の完全切断と左鎖骨下静脈の損傷による失血により被害者を死亡させた。 原審(東京地裁)は、被告人が覚せい剤精神病の影響により心神耗弱の状態にあったと認定して有罪とした。これに対し弁護人は、被告人は妄想・幻聴に直接支配されて本件犯行を行っており、心神喪失の状態にあったとして事実誤認を主張して控訴した。 【争点】 本件犯行当時、被告人が心神喪失の状態にあったか、心神耗弱にとどまるか。具体的には、覚せい剤精神病による妄想・幻聴が本件犯行に及ぼした影響の程度、及び犯行発覚防止行為(毛染め用ガウンの着用、ビニール手袋の装着、靴へのビニール袋の装着など)から被告人の行動制御能力がどの程度残存していたといえるかが争点となった。 【判旨(量刑)】 東京高裁は原判決を破棄し、被告人に対して無罪を言い渡した。 裁判所はまず、被告人の幻聴が殺害を直接命じたもので、他に犯行動機が全くなかった点、昭和62年頃から同一の声による幻聴に支配され、過去に2度自殺未遂に至るほど強い支配力を持っていた点、本件当日も午前零時頃から犯行時まで強く執拗に幻聴が続いた点、粗暴犯の前科前歴がなく人格異質性が顕著である点を挙げ、精神障害の本件犯行への影響は原判決の評価にとどまらず極めて強いものであったと認定した。 次に行動制御能力の評価については、行動制御能力の本質は「自らの行為が悪であることが判断できている場合にその行為を行わないでいることができる能力」であって、犯行やその準備行為を合理的に行う能力ではないと説示した。犯行発覚防止行為は幻聴の命令に従って殺害を決意した後に行われ、実行行為中にも幻聴に従っていたものであり、殺人の命令と矛盾するものでもないから、その合理性を行動制御能力肯定の方向で過大評価してはならないとした。また、毛染め用ガウンを羽織り、靴にビニール袋を履いた姿で廊下を歩く身なりははたから見れば極めて異様で人目に付きやすく、犯行発覚防止行為の合理性・的確性の程度についても原判決は過大評価していると指摘した。 さらに、被告人は被害者に会ったこともなく体格等も不明のまま犯行に及んでいること、同日午前8時に鍼灸師の訪問予約をそのままにして犯行に及んだこと、犯行後に仏具を倒すなど不可解な行動をとっていることなども殺人犯として合理性を欠くと判断した。 これらを総合し、被告人の精神障害が本件犯行に及ぼした影響は圧倒的なもので、本件犯行当時、行動制御能力が失われて心神喪失であったことの合理的疑いが残るとして、刑訴法404条・336条により無罪を言い渡した。 本判決は、犯行発覚防止行為の存在から行動制御能力を推認する原審の判断枠組みに対し、行動制御能力は「犯行を思いとどまる能力」を本質とするとの原則を明示し、幻聴による命令の支配下で行われた合理的行動を過大評価してはならないとした点で、責任能力判断の実務に重要な指針を与える判決である。