AI概要
【事案の概要】 本件は、中外製薬株式会社が保有する「複数分子の抗原に繰り返し結合する抗原結合分子」に関する特許(特許第4954326号、平成21年4月10日出願、平成24年3月23日設定登録)に対する無効審判請求の不成立審決の取消しを求めた審決取消訴訟である。原告はアレクシオン・ファーマシューティカルズ・インコーポレイテッドである。 本件特許の請求項1は、抗体の可変領域の少なくとも1つのアミノ酸をヒスチジンで置換または挿入することで、血漿中(pH7.4)と早期エンドソーム内(pH5.8)との解離定数の比(KD(pH5.8)/KD(pH7.4))が2以上10000以下となり、血漿中半減期が延長された抗体を含む医薬組成物を対象とするものであった。これは、抗体が1分子で複数の抗原に繰り返し結合することを可能にし、抗体医薬の投与量低減と薬効持続を目指す画期的な技術として位置づけられていた。 原告は平成28年、本件特許につき①実施可能要件及びサポート要件違反、②拡大先願違反、③進歩性欠如、④明確性要件違反を理由に無効審判を請求したが、特許庁は平成29年11月、いずれの無効理由も認められないとして請求不成立の審決をした。これに対し原告が本件訴訟を提起した。 【争点】 主たる争点は、本件特許が実施可能要件(特許法36条4項1号)を満たすか否かであった。本件発明は、基準となる抗体の特定がなく、かつヒスチジン置換または挿入の位置及び数にも限定がないため、1個または複数のヒスチジン置換等がされ、所定のpH依存的結合特性を有するあらゆる抗体を含む医薬組成物に及ぶ。このように広範な発明について、本件明細書が当業者に過度の試行錯誤を強いることなく実施可能な程度に開示されているかが問われた。 【判旨】 知的財産高等裁判所第3部(鶴岡稔彦裁判長)は、本件審決を取り消した。 裁判所は、本件発明1が実施可能要件を満たすためには、これに含まれる医薬組成物全体について実施できる程度の開示が必要であるとした上で、本件明細書の実施例を検討した。実施例2はホモロジーモデリングを用いる方法であるが、構造未知の抗体一般には適用できないため限界がある。実施例3はヒスチジンスキャニングによる二段階のスクリーニング法であるが、「CDRの残基をヒスチジンに置換しても結合能に大きな変化がない箇所」に本件発明の抗体のヒスチジン置換箇所が必ず含まれるとはいえないため、医薬組成物全体に適用できるものではないと判断した。 被告が主張した、可変領域のアミノ酸残基220個を1つずつ網羅的にヒスチジン置換する手法(被告主張ヒスチジンスキャニング)についても、どのような基準で置換位置を特定するかが明細書に記載されていないこと、また単独のヒスチジン置換位置を組み合わせるだけでは複数のヒスチジン置換がされた抗体の置換位置を常に特定できないこと(出願日後の文献である甲43では、単独置換ではpH依存的結合特性を示さない箇所であっても、他の置換と組み合わせることで所定の特性をもたらす例が示されている)を理由に、これを採用しなかった。 結論として、本件明細書には当業者が過度の試行錯誤なく本件発明を実施できる程度の記載があるとはいえず、本件発明は実施可能要件に適合しないと判断した。本件発明2〜6も本件発明1を引用する発明であるから同様に実施可能要件を欠くとして、審決を取り消した。 本判決は、広範なクレーム範囲を持つバイオ医薬特許について、明細書に開示された実施例の方法が発明全体に適用可能であることを厳格に要求したものであり、抗体医薬分野における実施可能要件の解釈に実務的意義を有する。