AI概要
【事案の概要】 本件は、中外製薬株式会社(被告)が保有する特許第5503698号「複数分子の抗原に繰り返し結合する抗原結合分子」について、アレクシオンファーマシューティカルズ(原告)が無効審判を請求したところ、特許庁が「請求は成り立たない」との審決(本件審決)をしたため、原告がその取消しを求めた審決取消請求訴訟である。 本件特許発明は、抗体の可変領域の少なくとも1つのアミノ酸をヒスチジンで置換し、又は可変領域にヒスチジンを挿入することを特徴とする、pH5.8での解離定数(KD)とpH7.4でのKDの比が2以上10000以下の抗体を含む医薬組成物に関するものである。通常の中和抗体は1分子で1分子の抗原にしか結合できないが、本件発明は、血漿中の中性pH(7.4)で抗原に強く結合し、細胞内エンドソーム内の酸性pH(5.8)で抗原から解離する性質を抗体に付与することで、1分子の抗体が複数の抗原に繰り返し結合できるようにし、薬物動態の向上と投与量低減を図ろうとするものである。 原告は、①実施可能要件及びサポート要件違反、②拡大先願違反、③進歩性欠如、④明確性要件違反の4つの無効理由を主張したが、特許庁はいずれも認めず審決を維持した。原告は本訴で4つの取消事由を主張し、特に実施可能要件違反(取消事由2)の判断の誤りを中心に争った。 【争点】 本件特許の請求項1の発明が、当業者が過度の試行錯誤を要することなく実施できる程度に明細書に開示されているか(実施可能要件充足性)。特に、本件発明は、どの抗体を出発材料とするか、ヒスチジン置換・挿入の位置や数について特許請求の範囲に限定がないため、あらゆる抗体が技術的範囲に含まれる。このような広範な発明について、明細書に記載された実施例2(ホモロジーモデリングによる立体構造モデルを用いる方法)及び実施例3(ヒスチジンスキャニングによる2段階スクリーニング)の開示で実施可能要件を充足するかが争われた。 【判旨】 知的財産高等裁判所第3部は、本件審決を取り消した。 裁判所は、本件発明1の技術的範囲には1個又は複数のヒスチジン置換・挿入がされあらゆる抗体を含む医薬組成物が含まれるため、実施可能要件を充足するにはこれら全体について実施できる程度の記載が必要であると解した上で、明細書の実施例を検討した。実施例2のホモロジーモデリング法は、構造情報が既知の類似抗体を前提とする技術であるから、構造未知の抗体一般には常に利用できず、発明全体に適用できない。実施例3のヒスチジンスキャニング法も、「結合能に大きな変化がない箇所」を予め選び出す手法であるが、本件発明の抗体のヒスチジン置換箇所が必ずその中に含まれることを示す記載も技術常識もないため、やはり発明全体をカバーできないと判断した。 被告が主張した「可変領域220アミノ酸残基を1つずつ網羅的にヒスチジン置換して有望な位置を特定し、それらを組み合わせれば足りる」とのヒスチジンスキャニング手法についても、①単独置換ではKD比が低下するが他の置換と組み合わせると所定のpH依存的結合特性を獲得する箇所が存在すること(甲43)、②置換の影響は必ずしも相加的でなく相乗効果も生じ得ること、から、単独置換位置の組合せでは本件発明に含まれる複数ヒスチジン置換抗体を全て特定することはできないと認定した。 以上から、本件発明は実施可能要件に適合せず、これを認めた本件審決には誤りがあるとして、その余の取消事由を判断するまでもなく審決を取り消した。本判決は、機能的・結果的な特性でクレームされた広範な医薬発明について、明細書の実施例に示された手法で発明全体を実施可能と認められるかを厳格に審査した事例であり、抗体医薬分野における実施可能要件の判断基準を示すものとして実務上の意義が大きい。